ハンナ・アーレント ― 2014年03月30日
俗物は叩く。容赦なく。うわー助けてくれー! (ベシャッ)
Hannah Arendt (邦題: ハンナ・アーレント)
ハンナの自宅でのパーティのシーン。ニューヨークの高層マンションに、ドイツ時代からの友人や今の大学の知人を集めた、カジュアルなパーティ。当初は皆英語で話しているが、途中でドイツ語での議論が始まる。ドイツ語についていけない人たちは別の部屋の窓際に退避して一服。
「ドイツ語は読めるんでしょ。」
「読むのはいいけど、会話にはついていけないよ。ああ速くてはね。」
会話についていけない、と言っているのはハンナが教えるニューヨークの大学の上司。
ハンナはニューヨークで講義をしているけれども、講義で使うのはドイツ語。
ハンナが教えているのはドイツ語ではない。現代思想だ。
学生はドイツ語が分かることが前提で、質問もドイツ語で。
そういうクラスがあるぐらいだから、大学の上司もそこそもドイツ語が達者でなければいけないはずなのだが、彼はドイツ語の会話が始まると早々に退避する。そして、「ああ速くてはね。」とうそぶく。
いやー、そんなに速くなかったぞ。僕にも分からんかったけど。
この上司は、ハンナの名声が高まるにつれ上機嫌でハンナをたたえるのだけれど、 後にハンナがメディアで叩かれるようになると、手のひらを返す、俗物として描かれる。
それは、当時のニューヨークのとある知識人のコミュニティのあり方に対する皮肉として受け取っておいても いいのだけど、ちょっと引っかかる。
なぜなら、この映画がドイツ映画で、ドイツ語が分かる、映画製作者が、ドイツ語が満足にできない人を非難する映画を作っている、という構図があるから。
この映画の本筋の構図にも、似た意味でちょっと引っかかる。
ハンナはユダヤ人で、強制収容所にも一旦は入れられた後、かろうじて脱出し、米国に逃れ、思想家、哲学者として有名になった。ハイデッガーの直弟子でもある。
この映画では、ナチスのアイヒマンを裁く、イスラエルで行われた裁判をハンナが傍聴して、それを苦悩しつつ批判する様子と、それに対する世間の激しい非難の様子が描かれる。
ハンナは雑誌ニューヨーカーの依頼でアイヒマン裁判を傍聴し、傍聴記をニューヨーカーに掲載する。この傍聴記が世間の非難を浴びる。
ハンナがアイヒマン裁判を批判する理由は、この裁判がアイヒマンの犯罪の原因を、アイヒマン個人が通常の人間とはかけ離れた怪物的な悪であるから、と描こうとしたのに対して、彼女の見立てによれば、アイヒマンは徹底的に任務に忠実な官吏であり、彼の行為の結果悲惨を被るユダヤ人については無関心であって、憎んでいたわけでも迫害されて当然と思っていたわけでもない、と考えたから。
それに加えて、ハンナは傍聴記で、戦時中、各地のユダヤ人集団の指導者層の一部が、ナチスに協力的であったことに言及した。このせいで、ハンナは長年の親友達からも非難され、絶交に近い扱いを受ける。
で、引っかかるのは、一歩引いて眺めると、この映画の構図では、ユダヤ人を迫害したドイツで作られた映画が、物語中のユダヤ人に、ユダヤ人迫害が起きたのはドイツ人が怪物的な悪だったからではなく、ユダヤ人迫害にはユダヤ人も加担していた、と言わせているから。
その主張に間違いはないのだろう。でも、ドイツ映画がそれを言うか、という感想がある。
映画としては生き生きとして面白い。当時のニューヨーク在住のドイツ知識人コミュニティの様子を描いている、というだけでも興味をそそる。はるばるイスラエルを訪れて裁判を傍聴するだけでなく、旧友に再会するシーンや、世間の非難が激しくなってからの、大学での公開講義のシーンも盛り上がる。
これもどこかでもう一度見ないと...
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