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アンダルシア7泊8日2013年04月01日

マラガ市役所と公園

春分の日を過ぎても寒さが続くドイツを逃れて、大変鼻の下を、いやいやいや羽を伸ばしてきましたよ。



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今回の日程は以下の通り。レンタカーで回った。


日曜:ハイデルベルクからマラガへ、マラガ近郊泊
月曜:マラガ、マラガ近郊泊
火曜:マラガからグラナダへ、グラナダ泊
水曜:グラナダからコルドバへ、コルドバ泊
木曜:コルドバからセビリヤ経由、アルコス・デ・ラ・フロンテラへ、アルコス泊
金曜:アルコスからジブラルタルへ、ジブラルタル近郊泊
土曜:ジブラルタルからミハスへ、ミハス泊
日曜:マラガからハイデルベルクへ、帰宅

セマナ・サンタ、マラガ

この週はちょうど、セマナ・サンタ(聖なる週)にあたり、一週間ずっとお祭り。つまりはイースターなのだけど、ドイツでは金曜と次の月曜だけが祝日なのに対して、スペイン南部では一週間ずっと祭りが続く。毎日、夕方から夜12時すぎまで、キリストやマリア様の山車をかついだ行列がある。何も知らずにこの週に旅行を計画したのだけど、ラッキー。


アルカサバから見たカテドラル、グラナダ

家族には申し訳ないけど一人旅。その分、思いっきり歩き回れた。見どころが多い上に見晴らしのいい高台もたくさんあるので、たくさん坂を登り降りした。足は豆だらけでくたくたに。


欲張って1日ずつ色んなところに行ったのだけど、どこも素晴らしく居心地がいいし見どころも多いので、ここにもう一泊したい、と思うことしばしば。マラガ、グラナダ、コルドバ、セビリアについて言えば、どれを選んでも見どころに欠けることはない。一つで充分ですよ。僕は全部行ったけどね(ドヤァ)。


ノンアルコールビール、マラガのカフェで

ドイツの冬を過ごした後、マラガについて、暖かさと海の碧さと日差しが本当に嬉しかった。ドイツの冬の暮らしが辛かったわけじゃないのだけど、やっぱり体が芯からリラックスするのが分かる。日本でなら温泉にゆったり浸かると、目をつぶって上向いて「あー」とか言うでしょ。マラガで、カフェの屋外席に座ってアルコールフリービールを飲むと、同じ気分が味わえた。


それぞれの街については、また別途書く。


帰りの飛行機で、離陸待ちの間に後ろの席から、若いドイツ人が Ciao, sole mio! (バイバイ、太陽) とつぶやく(なぜかイタリア語)のが聞こえた。分かるぞ、その気持ち。僕も悲しい。が、彼は、飛行機がフランクフルト空港に着陸する時には、 Liebe Deutschland, liebe Deutschland! (いとしのドイツ)と楽しげにつぶやいていた。裏切られた思いだ。


マラガのケーキ屋2013年04月02日

残念ながら、ドイツのケーキにはあまり魅力を感じない。ハイデルベルクには、チョコレートの
とびきりおいしい店はあるし、クリスマスシーズンにはシュトーレンも楽しみだったりするけれど、日本のケーキ屋さんにあるような、クリームとフルーツをたっぷりつかったケーキとなると、まだドイツで見かけたことがない。キルシュトルテが一番それに近くて、あれは僕も好きだけど、それですら無骨な感じがする。

これが、ハイデルベルクからも2時間で行ける、ドイツ国境に程近い、フランスのストラスブールになると、いくつも華やかなケーキが置いてある店があったから、この地域の伝統というわけでもなさそう。

で、今回スペインのケーキ屋もチェックしてきたのだけど、これがとても魅力的。マラガのアルカサバの入り口前広場の角にある、 Confiterìa La Exquisita Màlaga というケーキ屋の前をたまたま通りがかって、見事に素通りに失敗した。

何かプロモーションビデオがあったので張っとく。

あまりに色々おいしそうなので、許可をもらって写真を一杯撮ってきた。「ゼンブ、ホシイ。ゼンブ、タベラレナイ。 May I take pictures of these? 」と、怪しいスペイン語と英語のチャンポンで聞いて。あ、ちゃんと自分が食べる分一つは買ったよ。

Dado Moka, Brazo de Nata

Dado Moka 左、モカ・サイコロと、Brazo De Nata 右、クリームの腕。どちらもクリームたっぷりで、素晴らしい。

Ponche De Yema

Ponche De Yema 黄身のパンチ (飲み物のパンチの意味)。このテカテカした感じがたまらん。

Lengua Rusa, Ponche De Coco

Lengua Rusa 左、ロシア語?と、Ponche De Coco 右、ココナツ・パンチ。 Lengua には舌、という意味もあるので、ロシア人の舌とも読めるけど、ますます分からん。

Trufa De Nata, Ideal De Nata

Trufa De Nata 左、クリーム・トリュフと、 Ideal De Nata 右、クリームの理想?。これも意味は通じないものの、美味しそうなので許す。

Aliado

Aliado 連合国。そうです。第二次大戦で、枢軸と対抗した連合国、英語で言えば Allies の単数形です。訳が分かりませんが、もちろん美味しそうなのでOK。

Pio Nono

Pio Nono ピウス9世。18世紀のローマ法王。でっぷり太ったその肖像画から、この手の菓子が好きだったことがうかがわれます。多分。

Cucurucho De Nata

Cucurucho De Nata クリームコルネ。これは分かりやすい。かつ食べたい!

もっと色々あったのだけど、結局私が買ったのは、 Brazo De Nata でした。期待に違わぬ味でした。

この店の Helado (アイスクリーム)もいけます。その名も Màlaga と名づけられたコーヒー風味のフレーバーが最高。

セマナ・サンタの宗教行列2013年04月03日

キリストの旗、マラガ

セマナ・サンタの週は、毎日、お祭りの行列が出る。宗教行列=プロセッションと言う。昔、人に教わってそういうものがある、ってことは知ってたんだけど、先週アンダルシアに行って、初めて見た。



山車、というか神輿というか、キリストやマリア様の像が載った台を大勢で担いで、街の中を、結構細い道を通ってゆっくり進んでいく。ずっと動きっぱなしではなくて、2分進んで5分止まるぐらいのペース。止まってる間は、山車は肩から下してある。山車に足がついてることもあるし、取り外しできる足を担いでる人たちが一本ずつ杖代わりに持って歩いていることもある。


キリストの山車、マラガ

山車は普段は当然大事に教会や専用倉庫にしまわれているのだろうけど、セマナ・サンタの週は倉庫のドアが開いていて、行列が始まる前から見えるようになってたりする。上の写真はマラガの、ローマ劇場跡の前あたりで見たもの。


キリストの山車、行進中

こっちは行進中で、これもマラガなんだけど、キリスト像が違う。同じ市内にもいくつもキリストの山車があるようだ。


香を焚く少女達
香を焚く少女達その2

山車の前後には、香を焚く金属缶みたいなものを振り回す役の人や、十字架を掲げ持って歩く人、大音量で演奏する鼓笛隊などが連なって歩く。マラガでは、香を振り回してたのは美人の女の子達で、白い衣装とあいまって思わず見とれたのだけど、別の街では、同じ衣装を男性が着て香を振り回していてがっかりしたりする。当然そっちの写真は撮らない。


とんがりマスク

そうそう、忘れちゃいけないのが、とんがり帽子のマスクの人たち。たいてい巨大なろうそくを持って歩いている。


とんがりマスクと巨大ろうそく

初日のマラガで、お土産屋さんを通りがかると、なんだかとんがり帽子の人形がたくさん置いてあるなぁと思ったのだけど、それがプロセッションの装束だとは知らなかったので、なんでこんなものがあるんだろうと不思議に思ってた。とんがり帽子といえば、クークラックスクランしか思いつかない人だったので。ルパンのカリオストロの城にも似た格好の悪役がいたかな。


悪役なんてトンでもない。セマナ・サンタの行列では、どうみても敬虔な信徒が大人も子供も男も女もとんがりマスクで行列に参加してる。結構子供が多い。 持ってるろうそくから結構ロウが垂れるんだけど、このロウが縁起物らしく、持ってるハンカチの上にわざわざロウをもらってる人もいた。


マリア様の山車、マラガ

マリア様の山車は、こんな風にろうそくが何十本も立ってることが多い。


悲しげなマリア様

少し悲しげな表情のマリア様。


詰襟姿の鼓笛隊

で、一緒にあるく鼓笛隊の人たちはなぜか詰襟の学生服みたいのを着てる。金管楽器で、チューバみたいのもあるし、太鼓はでかいのを持っている人もいて、すごい音量が出る。


グラナダの鼓笛隊

グラナダの鼓笛隊は、もう少し軍服っぽいものを着てた。この真ん中の娘も美人。


マリア様の山車、グラナダ

出番前の楽屋いやいやいや教会で待機中のマリア様。これもグラナダ。


キリストの山車、グラナダ

同じくキリストの山車。


とんがりマスク、アルコス

アルコス・デ・ラ・フロンテラでは、緑のとんがりマスク。


ローマ兵のみなさん

加えて、なぞのフォーメーションを披露するローマ兵の皆さん。


女性が担ぐマリア像

アルコスのマリア像は女性だけで担ぎます。


キリスト像、アルコス

こちらは夜も更けてからのキリスト像。


賑わう夜

賑わう通り。アルコス・デ・ラ・フロンテラの祭りの夜はまだまだ続く。


The Measure of Civilization2013年04月28日

手品の種は聞くと簡単そうに聞こえるが、実際やるには地道な苦労が必要だ。


 The Measure of Civilization Ian Morris Profile Books


少し前に出た、同じ著者の Why The West Rules - For Now (ブログその一その二) では、文明の発展度合いを過去一万五千年間に渡って数値で表し、その値を用いて東西の文明の過去と未来を比較し、また今後の行く末を論じていた。この数値 Social Development Index 「社会発展指数」が著者の議論の基礎にあり、その数値を信用しないことには議論が始まらないのだけど、それをどうやって著者が算出したのかについては、あの本の中には大まかな説明しかなくて、「詳しい情報はWebに載せてあるからそっちをみてね」になっていた。


さてこっちの本は、まさにその社会発展指数をどうやって算出したのかを全部説明した本で、あっちの本を補完するもの。なので、文明の発展に関する議論としては、前の本と違うことは言ってない。使ったデータとその扱いに関する説明、が中心。


なんだか、延々データが載ってて重さが1kgもあるようなゲーム攻略本みたい。うちの下の娘と甥が、モンハンの攻略本でどっちが詳しいのを持ってるか競争をして、両家とも何冊もレンガ本を買わされたりしたのはもう数年前の話か…


そういうわけで、たぶん重い本じゃないかと思うのだけど、分からない。Kindle版を買ったから。


それにあんまり頭から順番に読む本でもないかもしれない。本文はあまり長くなくて、全体の半分くらいしかない。残りは注釈と参考文献が4割、索引が1割。ゲーム攻略本と同じく、気になるデータを眺めて、次はああしようかこうしようか考えるのが楽しいはず。同じ業界の学者なら、突っ込み所を探すのが正しい使い方。著者の意図もそこにある。でも私は頭から最後まで順番に読みましたけどね。


自慢はさておき。まず、社会発展指数の概略を説明すると。エネルギー採取、組織化力、戦争遂行能力、情報処理能力、の4項目それぞれに250点ずつ割り当てて、その合計を取ります。各項目とも、西暦2000年の時点で世界最高レベルにある都市と同じレベルにあれば250点。なので、たとえば組織化力は基本的に都市人口で計っていて、西暦2000年における世界最大都市は東京なので、それが250点になる。


あ、それからこの本は西洋と東洋を比較することをテーマにしているので、特定の都市にずっと注目するのではなくて、それぞれの時代で西洋で一番発達した都市の点数を西洋の点数とし、おなじく東洋一発達した都市の点数を東洋の点数にしている。だから、2000年は東京の点が東洋の点になっていることが多い(戦争遂行能力を除く)のだけど、時代を遡るにつれ、長安とか洛陽とかの状況に注目することになります。


この本の捉え方では、東洋はだいたい黄河から始まる中国に代表されていて、最後の最後で日本にまで広がったりするのだけど、その間西洋はどんどん場所を変えます。西洋の始まりはヨーロッパではなく、中東にあって、そこから地中海、北西ヨーロッパに伝わり、最後には大西洋を越えて北アメリカが代表するようになります。


で、総じていえることは、まず、ものすごい作業量だったに違いない、ということ。ちょっと数えてみても、ここでカバーされている知見は、
東洋と西洋(それぞれ上で述べた幅広い地域)
過去一万五千年(最近三千年は一世紀ごと、それ以前は250年ごと、500年ごと、1000年ごと、と段々荒くなりますが)
4つの項目
についてそれぞれ数字を与える必要があり、一つ一つの数字の裏にたくさんの文献(場合によっては、文献があまりないことの確認)があるわけです。とっても学者らしい仕事だと思う。


古い時代の点数になると、正直に、「この時代の○○に関する知見は乏しいので、前後の時代の数値から補間した」と書いてあることが多い。でも、何かに関する情報が少ない、と書くためには、少なくともそれに関する主要文献は隅々まで読まないと、「手がかりはなかった」とは書けないわけです。で、今回この本で、著者は「私が確認したのはこの本だよ」ということを全部説明したので、同業者は突っ込み放題なはず。誠実な態度だと思います。


実際、この本を読んで分かったことの一つは、この著者が行った社会発展指数の値決めは、補間につぐ補間だということ。ただし、未知の区間で値がどう変化しえたか(どういう変化が現実的にありえたか)について、たっぷり注意を払って行った補間だった。ある時点の推定値をあまり低く設定すると、その後の期間に異常な速度での発展を想定する必要が生じる。高すぎれば、その後に異様に長い停滞を想定することになる。また、文献にある定性的な記述から、ある時代のある都市と別の時代の別の都市が同じ数値を持つことが妥当かどうかを判断する。当然判断に幅が生じるのだけど、その場合は真ん中の値をとる。


一番普通の補間方法としては、未知の期間について、毎年一定量の成長を見込んだり、毎年一定の割合の成長を見込んだりするのだけど、この本ではそれぞれの補間方法を取った場合の値をグラフに示した上で、そのどちらよりもゆっくり成長が進んで最後に急激に伸びるパターンを選択していることが多い。それは、発掘された遺跡が示すデータに照らして、一定量や一定割合の成長を見込んだときのプロットだと進みすぎているからなんだそうだ。


エネルギー採取については、最低値が人間の体の生物としての要請から最低線が決まる。栄養として成人一人一日あたり2000kcalは取らないと長くは生きられないので、その他の必要もあわせると一日一人当たり4000kcalが最低線。


過去1万五千年の歴史全体がおおまかにみて、一定割合の指数関数的成長よりも更にずっと近年の伸び方が激しくなっている。ムーアの法則でさえ指数関数的なのに、成長はもっと加速しているようにみえる、ということ。


ただし、細かく見ればもちろん成長が天井にぶつかったことはなんどもあって、前の本でも述べられていたように、ローマや宋のような農業帝国は43点の壁を越えられず、その後衰退した。この本でも、著者は述べている。 「大停滞」が示していることが本当だとすると、それは、産業革命以降の社会モデルが2000年に1000点を越えたあたりでまた別の天井にぶつかったことを示しているのかもしれない、と。


エネルギー採取、組織化、戦争遂行、情報処理、の4つの指標に注目したのはなぜか、なぜ他の指標でないのか、については、著者は、他の指標でも良かった、この4つも互いにかぶっているし、考慮するべきすべての側面を網羅してはいない、と述べた後で、他の指標と入れ替えることで大きな結論が変わるとは思わない、と書いてます。「やれるもんならやってみな」と挑戦している感じ。


で、前の本とは違って、この4つを別々に見たことで、明らかになったのは、この4つの指標の間には順番があって、エネルギー採取がすべての大本で、そのレベルがある程度に達して初めて組織化が進行し、エネルギー採取レベルが更に高くなって戦争遂行、もっと遅く情報処理能力が進展する、ということ。


戦争遂行能力についていうと、現代の核戦争を250点としたとき、たった100年前でも5点にしかならず、200年前1800年で既に1点を割ってしまう。リニアスケールのグラフにすると18世紀以前は何もないようにしか見えない。この本では、0.01点が最低点なので、紀元前4000年から前には点がつかない。


情報処理能力はもっと酷くて、かりにムーアの法則が1950年以降2000年まで成立していたとすると、それだけで1950年のスコアは2000年のスコアの10億分の1になってしまう。ムーアの法則は18ヶ月ごとに倍、というペースを示唆しているので、50年間だと2の30乗以上の伸びになる。なので、そういうITの指標をストレートに使うのはこの著者はあきらめていて、その代わり、昔から人は言語を使い文字を書き、金勘定をし、手紙を配達してきた、ということに若干の点を配分している。


具体的には50点を男性の言語能力と算術能力にあてる。高度な文章をつづり、加減乗除を超える算術ができる男性が成人男性人口に占める比率1%につき0.5点、単純な文章と加減乗除のできる比率1%につき0.25点、名前を含むいくつかの単語と簡単な数勘定のできる比率1%につき0.15点という割り当て方をする。女性についても同様に50点を当てる。現代の西洋(の最先端地域)については合計100点という見立て。東洋も同じ。


これに、情報インフラの普及率に基づく乗数を設定する。現代の西洋の最先端地域については2.5倍。なので現代の西洋は100×2.5=250点となる。現代の東洋は、2000年時点での東京や香港でのインターネット普及率の相対的低さを考慮して1.89倍という乗数が設定されている。


ここから先というか、前がかなり無理がある。1900年についてこの乗数を推定するのに使えそうな、みんなが納得しそうな材料がもうない。なので著者は、「んー、2000年の50分の1ぐらいにしよう」と言って実際そうしている。1800年については「んー、さらにその5分の1」。でそれ以前は紀元前9千年ぐらいまでインフラに大きな変化はなかったと想定している。リテラシーの普及率だけが違っていた、ということ。


推定の方法は乱暴なのだけど、あまり大きく間違っているようにも聞こえない。もともと数値自体は恣意的に決めているので、その大小の精度には意味がない。意味があるのは、同じ方法で算出された数値同士を、西洋と東洋で比較したり、違う時代の数値と比較して増減を語ったりすること。


そしてこの著者がこの本の末尾で語るのは、これからのこと。単純にこの社会発展指数の算出を行うと、2100年には5000点を越えるのだけど、その数字が正しいかを問うことにあまり意味はない。意味があるのは、そうならないとしたら、何が原因となりうるかを考えることだ。そう著者は述べている。「大停滞」のような社会構造の限界なのか、NBC兵器の暴発なのか、それとも。


子供の頃、僕は犬の代わりにロケットに乗せてもらって宇宙から地球を見たいと思っていた。今の僕は Singularity の到来を待ち望む。