甲骨文字のリアリズム2015年03月08日

教科書には載っていない、初めて知る話がいっぱい。


 殷―中国史最古の王朝 落合淳思 中公新書2303


この本面白い、と思ったのは、実は本題が始まる前に出てきた、甲骨文字から現代の漢字までのいくつかの時代について、同じ文字の字形を並べてみた図(p.6、図表1)。そういう図はよくあるし、うかっとすると小学校の教科書にも載っているのだけど、この図を見て初めて気がついたことがいくつかある。


まず、「象」という漢字の天辺にあるカタカナのクみたいなものは、象の鼻をかたどったものだ、ということ。


それから、象も馬も人も、甲骨文字の時点では、全部、頭が上で手足が左側に見えるように描いたものだったこと。だから象の鼻が上にあるのだ。馬の上半分の多数の横棒は馬のたてがみだが、それが右側に出ているのも、そのせい。


「人」という漢字は、なんとなく、人の立ち姿を正面から見たところを描いたものかと思っていたが、甲骨文字では、人も手を前に出して立っている人を左側からみた絵だったのだ。


古代エジプト絵画では、人の顔は必ず横顔として描かれる。そう思うと、急に甲骨文字が、エジプトのヒエログリフとすごく似ている気がしてくる。いや、どっちも象形文字なんだから、似ているに決まっている。けど、絵のスタイルというか画風は全然違うよなーと思っていたのが、実は結構似ているんじゃないかと。


図表1には象と馬と人しか出てこないが、本文中には、他に、兎と虎もでてくる(p.72)。上が頭で下が尻尾だと思うと、兎の耳や虎の縦縞が、漢字の中に名残をとどめている、ような気がしてくるでしょ。


なお、牛とか羊とか角のある動物は、角のある頭だけを描いたらしい。牛の甲骨文字は図表24(p.95)、本文中ではp.120に出てくる。図表24には、犬と豚の甲骨文字も見える。やはり頭が上、足が左に出る向きで描かれている。うちの娘たちに見せたら、「すごい、犬と豚にしか見えない!」と言ってました。


極めつけに面白かったのは、p.100にあった話で、「羌」という、異民族を表す字がでてくる。これは、「上部が羊の角、下部が人の形」で、たぶん、派手な飾りか本当に羊の角がついた被り物をかぶっていた人を描いたのだと思うが、なんとこの字には「異字体」があり、頭の後ろ、したがって右側に辮髪のようなものが描かれている。すごい!


この本の本題は、甲骨文字の字形じゃなくて、殷の時代の社会構造や出来事を、後代の記録によらず、一次資料である甲骨文字を読み解くことで、驚くほど合理的に突きとめてみせることにある。その本題も、とても読み応えがあって満足度が高い。


さて。甲骨文字には、あちこちの敵を攻めたとか攻められたという話が出てくる(p.51)。敵は、「方」という字で示され、殷の支配に服していない勢力を言う。その中で、「第一期の甲骨文字に見える最大の敵は、○方と呼ばれた勢力である。」ここにある、このブログでは「○」と書いた文字は、今に残っていない漢字で、工場の工の下に口を置く。ブログ中で縦に並べるのは難しいので、以下、横に並べて、少し p.52から引用する。


エロ方は強大な敵であり、たびたび王都の近くにまで侵入した。しかし、それほど大きな勢力でありながら、文献資料にはエロ方の記録が皆無であり、後代には「エロ」の文字すら残っていない。エロ方は第一期において殷王朝と戦争を繰り返したが、それ以降の甲骨文字には見られなくなるので、最終的には武丁がエロ方との戦争に勝利したと考えられる。

うーむ、やはりエロへの風当たりは厳しい…


イミテーション・ゲームでうれし泣き2015年03月13日

いくつものテーマが重なりあう、嘘のように精緻に組みあがった、それでいて実話なストーリー。 五つ星級のおすすめ。


 イミテーションゲーム (原題: The Imitation Game)


第二次大戦時のドイツ軍の暗号と、それを解読したイギリスの数学者達。


暗号解読に使われた、それまでに例を見ない特別な機械。


凡人には理解できない天才の思考と、理解されない天才の苦悩。


イギリスの同盟国であるソ連との微妙な関係。


暗号の解読結果の利用に伴う、理不尽だが逃れようのない制約。


女性への偏見、同性愛者に対する迫害。


天才が成し遂げたいくつもの偉業とそれに見合わない不幸な晩年。


カンバーバッチが主人公アラン・チューリングを演じたのは大成功。論理的であることにおいて圧倒的な強さを持ちながら、人間的であることにおいて著しい弱みを見せる、チューリングの姿はBBCのシャーロックにそのまま重なって見える。


すごく楽しみにしていた映画で、うきうきしながら見始めたのだけど、始まって間もなく、説明しがたい感情の高ぶりが襲ってきて、嬉しくて泣きそうになりながら見ていた。終盤、話は暗くなるのだけど、決して悲しいからではない理由で、映画が終わる頃にはぼろぼろ泣いていた。つまり、あれですよ。美味しんぼで、故郷の味のご馳走を出された京極さんが、

 「なんちゅうもんを食わせてくれたんや…なんちゅうもんを…」
といってぼろぼろ泣いていたのと同じ状態。
 「これに比べると○○ー○ー・ゲームはカスや。」
あ、書いちゃった。書かないでおこうと思ったのに。そもそも比べるのが間違いや。


うちの奥さんと二人で見に行きました。奥さんも、「よかったねー」と言っていたのは、決してカンバーバッチファンだからだけではない様子。「こんなにいい映画を観たのは久しぶり」、とも。


シャーロックのカンバーバッチ以外にも、いろんなドラマや映画で見覚えのある役者が出てきます。キーラ・ナイトレイは別格として、まず、日本でも今をときめくダウントン・アビーのブランソン役のアレン・リーチは、チューリングと一緒に働く数学者の一人。MI6の黒幕ミンギスを演じたのは、ロバート・ダウニーJr主演の映画のシャーロック・ホームズの中で、悪役ブラックウッド卿で出ていたマーク・ストロング。彼はキック・アスでもレッド・ミストの父ちゃんとして出ていたり、すごくよく見かける気がする。それから結構強烈な印象を残したのは、チューリングをあからさまに敵視するデニストン中佐で、この人はゲーム・オブ・スローンズでラニスター家の当主、タイウィン・ラニスターをやってました。ウェスタロス最大の権力者であり、かつ実の息子のティリオンを忌み嫌うあたり、キャラがデニストン中佐と同じ。ダンス・ウッドって人なのか。


あと、初めてみる人ですが、学生の頃のチューリング役、アレックス・ローサーの演技も見事でした。人間関係に不器用なチューリングが唯一の親しい友人に対してもつ様々な思いを表情に浮かべてみせてました。


以下、ネタバレします。見ていない人は見てからどうぞ。








さて、もういいかな。


アラン・チューリングのエニグマ暗号解読の話や、計算機科学の創始者としての業績や、数奇な人生については以前から色んなところで読んだことがあったので、話の大筋は知っていたのだけど、映画にして絵になりそうなのは暗号解読だけなので、見る前には、暗号解読したらめでたしめでたしで終わる映画かと思い込んでました。とんでもない思いこみで、暗号や解読方法の詳細にこそ立ち入らないものの、チューリングの重層的な業績をうかがい知れるぐらいには色んな要素を描き込んでました。


エニグマ暗号解読自体については、かつて月間ASCIIに連載されていて、本にもなった 星野先生の解説 が懐かしいけど、正直理解が及びませんでした。ボンベ、という解読装置の名前だけが印象に残ってます。


映画の題名のイミテーション・ゲームは何のことだろう、と思っていたのだけど、チューリングテストのことらしい。チューリングテスト、というのは、将来人工知能が発達したとき、どこまで発達したら人と同等の知能を得たといえるか、という問いに対して、チューリングが提案した判定法。人間の審判が、壁の向こうにいる被験者と文字だけでやり取りをして、被験者が人間か、人工知能かを探る。審判が人間だと確信した被験者が人工知能だった場合、その人工知能は人と同等の知能を持つと言える、という話。まぁ、一つの考え方ではある。


暗号を解読しても、その結果を使うのはとても面倒、という話も、かなり丁寧に説明してました。敵の暗号を解読したら、そのことを敵に知られてはならない。知られたら、敵は暗号の仕組みを変えてしまい、また解読をやり直さなければならなくなる。そして、解読したことを敵から隠すためには、解読して得た情報を使って、味方を救ったり敵に奇襲をかけたりしてはいけない。暗号が漏れない限り分かるはずがない情報に基づいてこちらが行動すると、暗号が解かれていることに敵は気づいてしまうから。


では、暗号解読は全く無駄かというと、そうではなくて、解読結果を使う際に、暗号が解かれていると相手が気がつかないように工夫すれば使えます。そのために、まず解読結果はめったに使わないようにします。100回の戦闘が100回とも失敗すると、敵は何かおかしいと思いますが、数回急にこちらの行動が変わっただけでは、偶然そうなったのかもしれず、敵は確信が持てません。さらに、解読結果を使う場合には、なぜその情報をこちらが知ったのかを説明できる、嘘の情報を流します。


ニール・スティーブンスンのクリプトノミコンはフィクションですが、アラン・チューリングとエニグマ暗号解読の話が出てきます。そこでは、英軍が上記の隠蔽工作を行うためだけの専属部隊を持ち、主人公の一人はその部隊に所属して、その工作のためだけに敵地で活動していたりします。でも、エニグマ暗号が解読されたことは最高機密なので、この専属部隊には知らされておらず、この部隊は分けもわからず謎の任務を遂行する羽目になります。


あと、ぜんぜん今まで聞いたことがない話としては、ブレッチリーパークの数学者達の中に、ロシアのスパイがいて、しかもMI6はそれを知っていて泳がせていた、というんですが、これは実話かなぁ。いまググッたら、ジョン・ケアンクロスは確かに ソ連のスパイ だったらしいけど、MI6が当時それを知っていたかどうかは何も言及がないなぁ。


ジョン・ケアンクロス役のアレン・リーチは、ダウントン・アビーでも、ブランソン役でロシア革命に共感を寄せるセリフを喋ってましたね。あの時代の社会主義者っぽく見える顔なのかなぁ。